問1
を求めなさい。
答えを見る答えを閉じる
( 成分は )
目次 / 行列と一次変換 / 旧数学C(課程外)
—— 「行と列の内積」というひと手間の多い決め方と、数には無かった落とし穴 ——
この章では行列のかけ算を学びます。和が「同じ位置どうし」というあっさりした決め方だったのに対し、積は「左の行と右の列を組にして、かけて足す」という込み入った決め方です。おまけに $AB$ と $BA$ が一致しない、$AB = O$ なのに $A$ も $B$ も零行列でない、といった数では起こらないことが起こります。この章の落とし穴を知っておくと、以降の章で計算を誤りません。
前の章の和・差・実数倍は、どれも「同じ位置の成分どうし」でした。ならばかけ算も同じ位置どうしでかければよさそうなものですが、行列の積はそう決めません。もっと回りくどい決め方をします。
理由をつかむために、パン屋の売上を考えてみましょう。2 つの店で、あんぱんとメロンパンを売っています。先月の販売個数はこうでした。
商品ごとの売値と材料費は、別の表にまとめてあります。
ここで「A 店の売上」を出してみます。使うのは の第 1 行(A 店の個数)と の第 1 列(売値)で、
同じように「A 店の材料費」は の第 1 行と の第 2 列から 。「B 店の売上」は の第 2 行と の第 1 列から です。
出てきた 4 つの数を、もとの表と同じ形に並べ直してみましょう。
「店 × 商品」の表と「商品 × 項目」の表から、「店 × 項目」の表ができました。左の行と右の列を組にして、対応する成分をかけて足す。この操作を行列の積と定めます。同じ位置どうしをかける決め方では、こういう表の合成ができません。
の第 行と の第 列の成分を、左から順に組にしてかけ、すべて足したものを、積 の 成分と定める。
2 次の正方行列では
一般に、 が 行列、 が 行列のとき
かけて足す形は、ベクトルの分野の内積と同じです。「行列の積とは、左の行ベクトルと右の列ベクトルの内積を、あらゆる組み合わせについて並べたもの」と言いかえてもかまいません。
計算するときは、指を 2 本使うのがおすすめです。左手で左の行列の行を横になぞり、右手で右の行列の列を縦になぞる。 成分がほしければ、左は第 2 行、右は第 1 列。左は横、右は縦です。
行列の積は同じ位置どうしのかけ算ではなく、左の行と右の列を組にしてかけて足したもの、つまり行と列の内積を並べたものだということです。
次の積を求めなさい。
(1)
(2)
【解答】
(1) 4 つの成分を、行と列の組で順に作ります。
(2) 左は 、右は です。今度は 3 つずつ組にしてかけ、足します。たとえば 成分は
成分は 。残りも同じように計算して
(2) では と をかけて になりました。積では型が変わることがあります。
例題1 (2) で計算できたのは、左の行列の列の数(3)と、右の行列の行の数(3)が一致していたからです。組にする相手がちょうど過不足なくそろう、ということです。
もし左が 、右が だったら、左の行には数が 3 つ、右の列には数が 2 つしかなく、3 つ目の相手がいません。この場合、積は定めません。
が 行列、 が 行列、すなわち の列の数と の行の数が等しいとき、積 が定まり、その型は である。
内側の が一致すれば計算でき、外側の と が結果の型になる。一致しないとき、積は定めない。
どうしの積は です。ですから 2 次の正方行列の世界では、かけ算はいつでもでき、結果も同じ世界にとどまります。この章の後半から先は、ほとんどこの場合だけを考えます。
積が計算できるのは左の列の数と右の行の数が等しいときだけで、結果の型は「左の行の数 × 右の列の数」になるということです。
は 行列、 は 行列、 は 行列とする。次の積のうち計算できるものを選び、その型を求めなさい。
【解答】
内側の数がそろうかを見ます。
は計算できるのに は計算できない。積では順番を入れかえられないことが、型の段階ですでに起きています。
第 1 章で、この分野ではベクトルを縦に書くと約束しました。その理由がここで出てきます。 行列に の列ベクトルをかけると、 で計算でき、結果は 、つまりまた列ベクトルです。
座標平面の点 を列ベクトルで表しておけば、行列をかけるという操作が、点を別の点へ動かす操作になるわけです。
点 を列ベクトル で表すとき、行列 をかけて得られる点
を、 による点 の像という。
これが第 6 章から学ぶ一次変換の正体です。いまは「行列は点を動かす道具でもある」とだけ頭の隅に置いて、計算に慣れておきましょう。行列の積があの回りくどい決め方になっている本当の理由も、この見方から説明できます(厳密定義のページで扱います)。
列ベクトルに行列をかけると別の列ベクトルになるので、行列は点を動かす道具として使えるということです。
とする。 による点 の像を求めなさい。
【解答】
点を列ベクトルで書き、左から をかけます。
とは書けますが、 は型が合わず計算できません()。列ベクトルは右からかけるものだと覚えておきます。
数のかけ算には という特別な数がありました。何にかけても相手を変えない数です。行列にも同じ働きをするものがあります。
左上から右下への対角線上の成分がすべて 、他が である正方行列を単位行列といい、 と書く。2 次では
任意の 2 次の正方行列 に対して
が成り立つ。また、実数 に対して であり、 が成り立つ。
たしかめてみます。
のありがたみは、行列の式の中に数を持ちこめるところにあります。たとえば から「 を引く」ことはできません(行列から数は引けません)が、 なら意味を持ちます。数 は という行列に化けて、行列の式に仲間入りできるのです。
なお は、どんな とも順番を入れかえられる、この章では珍しい相手です。次の節で見るとおり、それは当たり前のことではありません。
単位行列 はかけても相手を変えない行列で、数 を の形で行列の式に持ちこむ役目も果たすということです。
とする。 を求めなさい。
【解答】
先に を計算します。 なので
これに左から をかけます。
先に展開して を計算してもかまいません。、 で、足すとやはり です。
ここからがこの章の山場です。数の世界では でした。行列ではこれが成り立ちません。
まったくの別物です。積の決め方を思い出せば当然で、 では の行と の列を組にしましたが、 では の行と の列を組にします。使う数の組み合わせが違うのですから、結果が違って当たり前なのです。
身近な操作でも、順番が結果を変えることはよくあります。靴下をはいてから靴をはくのと、靴をはいてから靴下をはくのとでは、まるで違う結果になります。行列は「操作」を表すもの(公式3)でしたから、こちらの感覚のほうが実は自然です。
一般に
である。特別に が成り立つとき、 と は交換可能(可換)であるという。
と は、どんな正方行列とも交換可能である。
たまたま交換可能になることもあります。たとえば と は、どちらの順でかけても です。大事なのは、交換できるかどうかは相手しだいで、確かめてはじめて使えるということ。「たぶん入れかえられるだろう」で進めると間違えます。
数との違いは、もう 1 つあります。
(零行列)であっても、 または とは限らない。
同じ理由で、 かつ であっても とは限らない(両辺を で「割る」ことはできない)。
数では、 なら または でした。方程式を「 だから または 」と解けたのは、この性質のおかげです。行列ではこの論法が使えません。 から または と結論してはいけない、ということです。
なぜこんなことが起きるのか。行列を「点を動かす操作」とみると腑に落ちます。平面上のすべての点を 軸につぶす操作と、すべての点を 軸につぶす操作を続けてすると、どの点も原点に行ってしまいます。どちらの操作も「何もしない」ではないのに、組み合わせると全部が消える。行列は、こういう「つぶす」働きを持てるのです。
行列の積では と が一致するとは限らず、 でも , が零行列とは限らないので、数と同じ感覚で式変形してはいけないということです。
, とする。 と を求めなさい。
【解答】
の成分は
の成分は
, なのに 。しかも のほうは零行列になりません。 という式から を勝手に導くこともできない、ということです。
失われたものばかり並べましたが、数の計算法則のうち生き残るものもあります。交換法則が成り立たないという一点だけが違う、と言ってもよいくらいです。
型がそろっていて計算できるかぎり、次が成り立つ。
結合法則が成り立つので、 と書いてもどこから計算するか迷いません。ただし並んでいる順番は変えられません。 を にしてはいけない。結合法則は「かっこの付け替え」を許すだけで、「並べ替え」は許さないのです。
分配法則があるので、かっこを外す計算はいつもどおりできます。問題は、外したあとの項をまとめるときです。
と をまとめてはならない。 と が交換可能()のときに限り、数と同じ
が成り立つ。とくに はすべてと交換可能なので、 は常に正しい。
展開の手順そのものは中学以来のものと同じです。 を分配法則で開くと、 の 4 項が出てきます。ここで としてしまうのが、いちばんよくある間違いです。
結合法則と分配法則は成り立つのでかっこは外せますが、展開して出てきた と は、交換可能だと確かめないかぎりまとめてはいけないということです。
, とする。 と をそれぞれ求め、一致しないことを確かめなさい。
【解答】
なので
一方、,, より
たしかに一致しません。原因は が と違うことです。正しい展開 で計算すれば となり、 と一致します。
同じ行列をくり返しかけたものを、数と同じように累乗で書きます。正方行列でなければ、型が合わずくり返しかけられません。
正方行列 と正の整数 に対して
と定める。また と約束する。指数法則のうち
は成り立つ。ただし は一般には成り立たない( と が交換可能なときに限る)。
が成り立つのは、同じ どうしなら順番を気にする必要がないからです。 で、これを に直すには真ん中の を に入れかえなければなりません。ここでも交換可能かどうかが効いてきます。
を求める問題は、まず , と具体的に計算し、規則を見つけて予想する、という順で考えます。予想を証明するには数学的帰納法を使います。第 5 章では、もっと強力な道具(ケーリー・ハミルトンの定理)でこの計算を片づけます。
累乗は同じ行列のくり返しの積で、指数法則は使えますが、 だけは交換可能なときしか使えないということです。
とする。 と を求め、 を の式で表しなさい。
【解答】
右上だけが ,, と増えています。 の右上は と予想できます。
数学的帰納法で確かめます。 のときは そのもので成り立ちます。 で成り立つとすると
となり、 でも成り立ちます。よってすべての正の整数 で正しいと言えます。
次の章では、 となる相手 、すなわち逆行列を探します。数の世界の「逆数」にあたるもので、これがあれば行列の方程式 を一気に解けます。ただし、逆数と違って存在しないことがあるというのが、行列らしいところです。その存在を見分ける鍵が という量です。
まずは公式をそのまま使う、ごく簡単な問題で確認しましょう。
問1
を求めなさい。
( 成分は )
問2
が 行列、 が 行列のとき、積 の型を求めなさい。
(内側の がそろうので計算でき、外側が型になる)
問3
, のとき、 と を求めなさい。
(単位行列はかけても相手を変えない)
問4
のとき、 を求めなさい。
()
問5
による点 の像を求めなさい。
()
難易度マークは ★=基礎、★★=標準、★★★=入試レベルです。★から順に取り組みましょう。
問1 ★
次の 2 つの積 (1) 、(2) を、それぞれ求めなさい。
(1) (2)
左の行列の行と、右の行列の列を組にします。
(1) 成分は第 1 行 と第 1 列 から作ります。残りの 3 つも同様です。
(2) 同じ手順です。
符号のある成分でつまずきやすいので、 のようにかっこを付けて書くと安全です。
問2 ★
, のとき、 と を求めなさい。
( 型)、( 型)
は 、 は です。 は で計算でき、型は 。3 つずつ組にします。
は で計算でき、型は 。今度は 2 つずつ組にします。第 1 行は の第 1 行 と の各列から
残りも同様に計算して
と は、値どころか型さえ違います。
問3 ★
, のとき、 と を求め、一致しないことを確かめなさい。
、 となり一致しない
の成分は
の成分は
成分が と で違うので、 です。型が同じ正方行列どうしでも、順番を変えれば別の行列になります。
問4 ★
, のとき、 と を求めなさい。
( 型)、( 型)
は 、 は です。
は なので 型、成分は 1 つだけです。
は なので 型。組にする相手は 1 つずつなので、単にかけるだけです。 の成分を行に、 の成分を列に割り当てます。
同じ 2 つをかけているのに、順番を変えると と 。ちなみに の中身 は、ベクトルの内積そのものです。
問5 ★
のとき、 を求めなさい。
先にかっこの中を計算します。 なので
の成分は
展開してから計算してもかまいません。 はすべての行列と交換可能なので
が正しく使えます。 を使うと、やはり です。
問6 ★
による点 と点 の像を、それぞれ求めなさい。
点 の像は 、点 の像は
点を列ベクトルで書き、左から をかけます。
2 つまとめて計算することもできます。2 つの列ベクトルを横に並べた に をかけると となり、各列がそれぞれの像になります。
問7 ★
, のとき、積 の 成分と 成分を求めなさい。
成分は 、 成分は
積全体を計算する必要はありません。ほしい成分に関わる行と列だけを取り出します。
成分は、 の第 2 行 と の第 1 列 から
成分は、 の第 1 行 と の第 2 列 から
番号は「行が先、列があと」。 成分なら左は第 2 行、右は第 1 列です。
問8 ★
, のとき、,, をそれぞれ求めなさい。
3 つとも
まず を計算します。
よって です。
は を使って
も同じく になります。実数倍は、積のどこに付けても結果が変わりません(公式7)。 と の順番は入れかえられませんが、実数の は自由に動かせる、ということです。
問9 ★★
, のとき、 と をそれぞれ求め、一致しないことを確かめなさい。
、。 だから
なので、 の成分は
一方、,, より
理由は が と異なることです。正しい展開は
で、実際に足すと となり に一致します。 を にまとめてよいのは、 と が交換可能なときだけです。
問10 ★★
, のとき、 と を求め、 でも とは限らないことを確かめなさい。
、
の成分は
の成分は
, なのに になりました。数では なら一方が でしたが、行列ではこの論法が使えません。さらに から を導くこともできません。
なお、この 2 つはどちらも第 2 行が第 1 行の定数倍になっています( は 2 倍、 は 倍)。こうした「つぶれた」行列どうしでは、積が零行列になることが起こります。見分ける量は第 3 章の です。
問11 ★★
と交換可能な 2 次の正方行列 をすべて求めなさい。
(, は任意の実数)
とおき、 を成分で書きます。
対応する成分を比べると
第 1 式(または第 3 式)から 。これを第 4 式に入れると で、条件は増えません。第 2 式を整理すると
よって , とおいて
これは の形(,)にほかなりません。 と 自身から作った行列は、 と必ず交換可能だからです。 とすれば になります。
問12 ★★
が を満たすとき、実数 , の値を求めなさい。
,
を成分で計算します。
これが零行列になる条件です。 成分から すなわち 、 成分から すなわち 。
残りの 2 つも満たすか確かめます。 成分は 、 成分は 。どちらも です。
このとき は零行列ではないのに、2 乗すると零行列になります。数では なら でしたから、ここにも行列特有の現象があります。
問13 ★★
について、,, を求め、さらに を求めなさい。
,,、
順に計算します。
なので、4 回かけるともとに戻ります。 を で割ると
よって
大きな累乗は、まず小さい で計算して周期を探すのが定石です。余りが ,,, のどれかで答えが決まります。
問14 ★★
,, について、 と をそれぞれ求め、一致することを確かめなさい。
どちらも
型は が 、 が 、 が です。どちらの順でまとめても、最後は になります。
先に を計算する場合。
先に を計算する場合。
一致しました(結合法則)。途中に現れる行列の型は と でまるで違うのに、最後は同じところへ着きます。計算の手間が減るほうを選んでよい、ということです。
問15 ★★
を満たす 2 次の正方行列 を求めなさい。
とおいて左辺を計算します。
右辺と成分を比べると、, についての連立と、, についての連立に分かれます。
左の連立は、第 1 式を 3 倍して第 2 式から引くと 、よって ,。右の連立も同様に から ,。
検算すると、たしかに です。第 3 章で逆行列を学ぶと、この手の方程式は連立を解かずに片づきます。
問16 ★★
,, のとき、 かつ であることを示しなさい。
であり、 と は 成分が と で異なる
の 2 つの行はどちらも なので、積の 2 つの行も等しくなります。 の第 1 行・第 2 行は、どちらも と の各列から
の第 1 行・第 2 行も、どちらも と の各列から
よって 。一方 の 成分は 、 の 成分は なので です。
数なら かつ から と言えました(両辺を で割る)。行列ではこの消去法則が成り立ちません。実際、 で , という零因子の状況が起きています。 から を導いてよいのは、 に逆行列があるとき(第 3 章)だけです。
問17 ★★★
, とする。合成関数 を計算し、それが行列の積 の成分と対応することを示しなさい。
。積は で、係数が の順に並ぶ
まず合成関数を計算します。 の に を代入し、分母・分子に をかけて整理します。
次に行列の積を計算します。
一次分数関数 に行列 を対応させると、 には 、 には が対応します。合成 の係数は 、すなわち積 と一致しました。
「後からはたらく の行列を左に書く」という順番に注意してください。合成を続けても、対応する行列をその順にかけていくだけで係数が得られます。行列の積があの回りくどい決め方をしているのは、まさにこの「合成」を表すためです(第 8 章で再び扱います)。
問18 ★★★
2 次の正方行列 が、すべての 2 次の正方行列と交換可能であるとする。このとき ( は実数)と表せることを示しなさい。
, との交換可能性から ,, が出て、
とおきます。「すべての行列と交換可能」なのですから、都合のよい相手を 2 つだけ選んで使います。
まず との交換を考えます。
これらが等しいので、 成分より 、 成分より が得られます。
次に との交換を考えます。
成分より が得られます( 成分からは で、さきほどと同じ条件)。
以上より , なので、 とおいて
逆に はどんな行列とも交換可能ですから、「すべてと交換可能な行列」はちょうど の形のものに限られます。行列の世界で数と同じようにふるまえるのは、 という「数の化身」だけだということです。
問19 ★★★
を満たす 2 次の正方行列 をすべて求めなさい。
, の 2 つ
とおいて 2 乗します。
これが に等しいとします。
成分から なので、 です。すると 成分の から
を残りに入れると、 と が出ます。よって , はそれぞれ か ですが、 だと となって に反します。したがって で、 または の 2 通りです。
は 、すなわち から決まります。
数の平方根が の 2 つだったのと似て、ここでも符号違いの 2 つが出ました。ただし行列では、平方根が 1 つも無いことも、無数にあることもあります(たとえば を満たす は無数にあります)。
問20 ★★★
とする。 が成り立つことを示し、正の整数 に対して を の式で表しなさい。
。
まず 2 乗を計算します。
この関係があると、 を 1 つかけるたびに「 倍」に化けます。、。そこで
と予想し、数学的帰納法で示します。
のとき、右辺は で成り立ちます。
で が成り立つとすると
となり、 でも成り立ちます。よってすべての正の整数 で正しく
を の定数倍(や と の1次結合)で書き直してから累乗を進める、というのがここでの手筋です。第 5 章では、どんな 2 次の正方行列でも を と で書き直せること(ケーリー・ハミルトンの定理)を学び、この方法を一般化します。
行列の和は「同じ位置どうし」なのに、なぜ積だけ回りくどいのか。この決め方は、誰かが思いつきで選んだものではありません。置きかえを続けて行うという場面から、自然に現れたものです。
を に置きかえ、その結果をさらに に置きかえてみてください。計算すると になります。ここで、それぞれの係数を表にして
と並べると、答えの係数がぴたりと出てきます。「行と列を組にしてかけて足す」は、2 つの置きかえを続けたときの係数の計算そのものなのです。
19 世紀の数学者たちは、方程式の変数を別の変数で置きかえる計算を山ほど行っていました。ケイリーはその係数の表だけを取り出し、続けて置きかえる操作を「表どうしのかけ算」と呼ぶことにした。 も、この見方なら驚きではありません。置きかえる順番が違えば、結果が違うのは当たり前だからです。
豆知識
続けて置きかえるときは、後からはたらくほうを左に書きます。 のあとに … ではなく、先に 、後から なら の順です。関数の合成 と同じ並び方で、慣れるまで迷いやすいところ。第 8 章で正面から扱います。
の積を計算するには、かけ算が何回必要でしょうか。成分が 4 つあり、それぞれに 2 回のかけ算がいるので、素直にやれば 8 回です。当たり前すぎて、誰も疑いませんでした。
ところが 1969 年、ドイツのシュトラッセンが 7 回でできると発表します。 のような和や差を先に作ってから 7 個の積を計算し、それらを組み合わせて 4 つの成分を復元するのです。足し算の回数は増えますが、かけ算は 1 回減ります。
たった 1 回、と思うかもしれません。しかし大きな行列は、小さな行列に分けて同じ手順をくり返せます。 の積は素直にやると に比例する手間がかかるところ、この方法だと ほどに下がる。 が大きいほど差は開きます。
この発表は、多くの研究者に「当たり前だと思っていた計算の手間は、本当に最小なのか」と問い直させました。以来、指数を下げる競争が半世紀以上続いています(2026 年の時点でも 台までしか下がっておらず、理論上の下限 には届いていません)。ちなみに、いまの人工知能の学習でコンピュータが最も多くの時間を使っている計算も、巨大な行列の積です。
という不便な性質は、実は物理学の根っこにあります。
1925 年、23 歳のハイゼンベルクは、原子の中の電子について「観測できる量だけで理論を作る」と決めて計算を進め、奇妙な数の表にたどり着きました。その表どうしのかけ算は、順番を変えると答えが変わってしまう。彼自身は困惑したそうですが、原稿を見たゲッティンゲン大学のボルンが「これは行列だ」と気づきます。数学ではとっくに知られていた道具だったのです。こうして生まれた理論は行列力学と呼ばれました。
そこで現れた関係式が、位置を表す行列 と運動量を表す行列 について
というものでした( はプランク定数、 は虚数単位)。 が零行列にならない、つまり「位置をはかってから運動量をはかる」のと「運動量をはかってから位置をはかる」のが違う。ここから、両方を同時に精密には決められないという不確定性原理が導かれます。
靴下と靴の順番を変えると結果が変わる、という他愛のない話が、ミクロの世界のふるまいと地続きだった。行列の非可換性は、不便な性質どころか、自然界の姿を写し取る性質だったわけです。
※ここは発展ページです。高校の範囲では「行と列を組にしてかけて足す」と使えれば十分ですが、なぜその決め方なのか、成り立つ法則はどこまで証明できるのか、そして数の世界と何がどう違うのかが気になる人のために、少し厳密な形にまとめておきます。
を 行列、 を 行列とする。積 を、 成分が
で与えられる 行列として定める。 の列の数と の行の数が一致しないとき、積は定めない。
和のときと同じ見方をすれば、 は「位置 → 数」の対応でした(第1章 定義1)。積の定義に現れる添字 は、 の列番号であり の行番号でもあります。この が から まで動いて足し合わされる。足す相手が過不足なくそろうのが の一致であり、型の条件はここから来ています。
型がそろって積が定まるかぎり、次が成り立つ。
証明 を 、 を 、 を 行列とする。 を定義に従って書き下すと
同様に
どちらも「 を、すべての と の組について足したもの」であり、有限個の和は足す順序を変えてよいから両者は一致する。
分配法則も同様で、実数の分配法則から
(証明終)
結合法則の証明の中身は、二重和の順序交換だけでした。行列に固有の事情は何もなく、実数の計算法則をなぞっているにすぎません。 という目立つ性質のせいで身構えてしまいますが、崩れるのは交換法則ただ 1 つで、他はすべて生き残ります。
では、なぜその 1 つだけが崩れるのでしょうか。積の定義を眺めても腑に落ちません。次の定理が答えになります。
を 行列とし、 個の成分を縦に並べた列ベクトル に を対応させる写像を とする。 を 行列とするとき
すなわち「先に 、後から をはたらかせる」ことは、行列 をかけることに等しい。
証明 結合法則(定理1)より、任意の列ベクトル ( 個の成分)に対して
すべての で値が一致するので、写像として等しい。(証明終)
行列の積は、操作を続けて行うことを表しているのです。「 軸方向に 2 倍してから 30° 回す」と「30° 回してから 軸方向に 2 倍する」が別の操作であるように、順番を変えれば結果が変わる。 は、積の決め方の副作用ではなく、写した先の現象そのものだということになります。
この見方が主役になるのが第6章からの一次変換です。逆にいえば、積をこう定めたからこそ、行列は「操作を表す道具」として使えるようになりました。
集合 に和と積が定まっていて、次を満たすとき、 を環という。
積について交換法則も成り立つとき可換環、そうでないとき非可換環という。
次の正方行列全体 は、第1章 定理1(和についての8法則)と本章の定理1により、単位元を とする環になります。 では非可換環です。
整数全体 や実数全体 も環ですが、そちらは可換環でした。高校までに出会う「数」はすべて可換環の要素で、私たちが式変形で無意識に使ってきた交換法則は、この性質に支えられていたことになります。
環としての には、数の環に無い特徴がもう 1 つあります。
環 の要素 について、 となる が存在するとき、 を零因子という。零因子を持たない可換環()を整域という。
や は整域です。 または という、方程式を解くときに使う論法は、整域であることの言いかえにほかなりません。
一方、 は整域ではありません。実践問題 j10 の は となる を持つので零因子です。j16 で消去法則(, )が破れたのも、同じ事情によります。 から を導けないからです。
まとめると、行列の世界で失われたのは次の 2 つです。
| 数の世界 | 行列の世界 |
|---|---|
| (可換環) | 一般に (非可換環) |
| または (整域) | でも両方 がありうる(零因子を持つ) |
最後に、実践問題 j18 で示したことを一般の形で述べておきます。「すべてと交換できる」という条件が、どれだけ強い制約なのかを表す定理です。
が、すべての について を満たすならば、( は実数)である。この形の行列をスカラー行列といい、環 の中心という。
証明 を、 成分だけが で他が の行列とする(第1章 定理3)。定義から
とする。, の成分を比べると、左辺は 、右辺は であるから
すなわち の対角成分以外はすべて である。次に , の成分を比べると となり、これが任意の , で成り立つので対角成分はすべて等しい。その値を とすれば である。
逆に は よりすべてと交換可能である。(証明終)
で と を選んだものが、j18 の証明でした。非可換な世界にも「数のようにふるまう場所」は残っていて、それがちょうどスカラー行列 の集まりだ、ということです。第1章で を「数の化身」と呼びたくなった理由が、ここではっきりします。
次の章では、 となる相手 (逆行列)を考えます。環に逆元が存在するかどうかは、その環の性質を大きく左右します。実数では 以外のすべてに逆数がありました(このような可換環を体といいます)。行列では、 でなくても逆行列を持たないものがある。持つか持たないかを見分ける量が で、実はそれは零因子かどうかの判定と同じことなのです。
この章の学習が終わったら
学習完了テストを受ける